August 9, 2017

2017-08-09

相場を始めると、他のことはできなくなってしまう。

今日は大負け。開始から考えるとトントンなので、それを慰めにして。

負けて、体調・精神が悪くなると、その体調の悪さの共通性から、まるで関係のない否定的な記憶・気分が循環的に想起される。

まったくもって人生はフェアでないなとか思う。フェアである/ないーーあるいは平等というテーマーーが、ルサンチマンに動機づけられている(可能性がある)というのは、まったくそのとおりかもしれない。(しかし、ルサンチマンに動機づけられていることと、その主張の正当性は別個のことではあるーー心理的な切り分けは難しいにせよ)。

 ・・・

最近でもなく、もしかしたら数年悩んでいる具体性のないテーマに、「仏教的な瞑想」とは「政治的な従属」を意味するのでないか、というのがある。瞑想、西洋語に翻訳すれば「マインドフルネス」ということになるのだが、それは既存の環境や自己を所与のものとして受け容れることに主眼がある。しかし、そんなふうに所与として受け容れ、文句を言わないことは、その環境をそもそも構築している側の主体(為政者、というか)にとって極めて都合の良いイデオロギーとしても機能する。

コント・スポンヴィルは、「マインドフルネス」という用語は使っておらず、むしろそれはストア派やスピノザからのものなのだが、「マインドフルネス」と類似した幸福論を『幸せは絶望の上に』で語っている。そこで彼は、政治的な改善と、彼の言う「絶望」は矛盾するものでない、と書いていた。しかし何度か読んで、その後考えてみても、それは上手く腑に落ちない。

あと、そもそも、「従属」の何が悪いのかが、一番分からない点かと思う。文句を言っても仕方ないことを受け容れることがどうして「従属」なのだろう?

 ・・・

ジョージ・ソロスが、ポパー哲学の信奉者である、ということから、もっともらしい与太話を語れなくもなさそうだ。(科学的営みからの帰納の徹底的な排除の帰結する不条理な「気分」)。

 ・・・

死ぬ前に後悔する/しない、という考えとか気分はバカらしいとはいえない。だから、終末期医療の人が語る、人が死ぬ前になって後悔のすること、というのも、興味深く(また痛く)はある。

が、死ぬ前に後悔することは、「死ぬ前」という時期にバイアスされたものだ。もちろん、「終わり」を特権視することーー時間切片ごとの快・苦の総量よりも、むしろその終わり方の良さを重視することーーは、人間の一般的な傾向ではある。その極めて人間的な傾向に対し、バイアスであるといっても仕方ないような気もするのだが。

©Something | Randomized 2017