July 24, 2017

2017-07-24

8時起床。

過労死のニュースの、コメント欄とかを気まぐれに見てしまい疲れた。

それは、言葉の曖昧さを巡っての話にも、見えた。自己管理や自己責任とは何なのだろう? 何がどれだけのことを引き受け、あるいは引き受けられないのか、という本当のところをいえば状況ごと、個人ごとにあまりに異なることを、確率的な言語でない、deterministic な言語を用いて語ろうとすることの限界。

頭のなかには脊髄反射的な言葉が溢れる。不愉快さに駆動される。疲れる。

こういうふうに読むと、情動に振り回されるばかりで、正確な認識ができない。多分、機械的に読むことをおぼえるべきなのだ。「責任」といった語がどのような頻度で、他のどのような語との関連で登場し、等々のことを、コードを用いて調べ、示すようなこと。どのような見解(種々の脊髄反射)が正しいというよりは、その脊髄反射がどのように小さな「世論」のバランスを変更し、維持しようとしているのか。それを探ること。

自分で書いていて、正直かなり意味がわからないのだが、ともかく、今知ってる言語や方法では、それを正しく理解できないことは間違いがなさそうだ。

 ・・・

ふと、この手の(いってみれば)「政治的」なコメントの「奇妙さ」を、樫村晴香がどこかで語ってなかっただろうか、と思って調べた。例えば「人工知能のための人間入門」の冒頭で、こんなことを言っていた。

人間の思考と行動の特異性は、語の選択とその線的結合からなる言語的演算と、他方での認知と身体制御の演算過程が、彼らの脳ではきわめて特殊な仕方で連携していることに、由来している。

その特異性は、特に彼ら自身が「人間的」だと考える感情を見ることで、現象的には、一定の特性が感知される。例えば宗教、政治、芸術といった精神・身体活動、つまり神や理念や美しい作品など、言語的記号や表象への信仰や傾倒の感情などである。 これらの例では、個体間や脳内で情報を伝達するための言語や表象が、それによって伝達される情報を抜きにして、または少なくとも通常の情報伝達とは別の仕方で、彼らに力をおよぼしているのが観察される。宗教的言説や政治的理念は、一般に論理的に分節・読解できず、意味内容との対応が曖昧なものが多いが、それらはその曖昧さにも関わらず、逆にその曖昧さに比例するかのように、彼らに大きな身体・情動的反応を引き起こす。そこでは伝達された刺激・信号は、記号の伝達に通常駆動する処理過程、つまり記号読解格子で意味内容・脳内情報に変換され、さらに別の処理層に送られて変換され、最終的に発話や信号応答を含めた身体運動に変換される、という道筋とは、別の回路をたどるように見受けられる。そこで信号・表象は、読解格子をバイパスして、あたかも物理的な波動が直接神経組織に参入してネットワークを駆動させ、視覚像や聴覚観念など他の情報形態に変換され、新しいイメージや観念を生むかのように、非分節的で情動的な伝達と反応を彼らの身体に引き起こす。(「人工知能のための人間入門」)


『コルナイ・ヤーノシュ自伝』を読んでいる。1928年生まれの、ハンガリーの高名な経済学者の自伝。ハンガリーなので、彼の10代後半から20代後半にかけての時期は、「マルクス主義」「社会主義」にどっぷりでもあり、今読んでいる部分はその迷妄から徐々に覚めていくところ、だ。

人間にとって「中央集権」とは馴染みの良いものなんじゃないか、とたまに思う。ダニエル・カーネマンは多数の変数が関与するような統計的処理を理解できるようには人間はできていない、と言っているが、「マーケット」とはまさに、そういう多数、というより無数の変数(エージェント)のバラバラの行為がなぜか秩序として創発する、というもので、それに比べると「中央集権」「計画経済」はいかにも理解がし易い(気がする)。「人間的」というか。

もちろん社会主義は絶対的に敗北した。地獄への道は善意で舗装されていた。でも、それに親近感をおぼえるーーあるいは資本主義に敵意をおぼえるーー人間的な性向は、今でも変わらずそのままだ。だから、「社会主義」について学んでおくことにも価値がある、気がする。

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